ま ば ら な
【時間について】


2021.4.18




過食が止まらないので、一日、断食をした。
その間にやっていたことといえば、断続的に、音声SNSで、自分の声を収録して、写真とともに投稿していた。病気の症状が止まった時期からこちら、ずっと起こっていた不思議な体験について、話すのが憚られるように感じていたことを、まるでデトックスをするように吐き出した。断食は、食事に留まらず、自分(自我)の断食にもなっていたのだと知る。
このとき、私が声を録音することで何をやっていたかというと、「時間」というものに向き合っていたのだと思う。今、ストーリーを自分に入れることが辛く、再び本が読めない時期に入っていて、自分の文章も、長くは書けない状態だった。
私は長く、情報全公開の時間にあったわけだが、そこで何が起こっていたかというと、「時間が経っていなかった」のだと気づいた。
自分がすべて世界に同時公開だから、外部との時間のずれを感じないで済んでいたのだ。時間のずれによる苦痛を、病の症状によってよけていた。時間に引きこもっていたとも言えるかもしれない。
精神的な病というのは、もしかすると、空間というよりもむしろ、時間の病なのではないだろうか。

病から回復した私には、再び時間がもたらされた。
今でも、世界の時間とのずれは感じないが、ヒトの世界における時間の流れとのずれは、とても大きい。例えば、言葉における時間を、自分だけの中に抱えることによる、時間のずれ。
最近、自分というものを意識するのに、文字でなく声を使うことが増えてきたのは、声(音)があらかじめ空間として限定的で、同時に時間的な体感として自分とのずれが少ないものだからなのだと思う。自分に対して、外部から侵食されてくる時間を取り戻そう、自分にとってのずれをできるだけなくそう、としているようだ。
これに対して、例えばシンクロニシティ(同時性、共時性)というものがある。天使の声とも言われるこの合図は、自分だけ、もしくは自分と大切な相手の間だけに起こる。そして同時に世界との同調でもある。そのとき、時間は、確かに自分にとって生きたものになる。しかし、シンクロニシティは、外部に流れる時間とのずれを、大きく感じる出来事でもある。個の時間の流れというのは、自分の体感でしか分からないからだ。他者には「見えない」。

自分を自分として感じようとするとき、時間の概念が少ない視覚メディア(文字や画像など)は、過剰すぎるのかもしれない。むしろ動いている視覚メディア=映像の方が、(見聞きしている)自分を自分だと思える時間に沿っているように感じる。
自分の時間を自覚的に投入して受け取る視覚メディアに対しては、過剰さは感じないが、巷に溢れる、自分との関係が判別のつかない視覚情報は、空間を圧倒しているだけでなく、自分における時間もまた圧倒している。
集合的無意識にも、時間の概念がおそらくあって、どのように時間を使うかという点においての圧倒が存在するように思う。そこに対して、個の時間が常に抗う必要があるとすれば、なかなかの地獄である。

プライベートというのが、空間の中だけにでなく、時間の中にも大いに存在するということが、ネットの発展により発見されているかもしれない。つまり、プライベート空間に入り込んできた他人の時間が、個のプライベートな時間も侵食しているという発見だ。
「時間泥棒」がミヒャエル・エンデによって指摘されてからだいぶ経つが、個の時間を個が取り戻すための施策が、そろそろ必要かもしれない。
時間をかけなければ育たないものがあることへの意識も、大切に思う。自分というものもまた「育てる」ものだけれど、自分の時間を、他人の分身(よくできた人間)としてではなく、自分それ自身に、かけてあげる必要がある。

もう少し大きなレベルで言うと、時間というのは、右肩上がりをやめ、「循環」思考を必須とする時代にも、貴重なものになっていく。循環には、すべからく「時間がかかる」。
自分がどんな循環たちを回しているのかを理解し、そのために時間を使うことが大事で、その際には各循環で時間の流れが異なるので、他者との協力はあり得ても、同調は必ずしも必要ない。
むしろ自分を守るためにこそ、時間を自分の手元に手繰り寄せる必要がある。つまり、個の時間に、外部に同調しない恐怖を振り払って、没入する。
そのことにより、世界を作っているのが社会でも他人でもなく自分自身だという事実が、よりはっきりと確認されるだろう。

目には見えない、時間の時代が来ている。
第4次元と言われる時間が可識化されることで、自動的に世界は5次元に移行する。
次元上昇=5次元への移行=現時点における霊的覚醒は、特殊なことではなく、地球上の歴史的必然なのだろう。