ま ば ら な
【buendia】


2022.4.13

「日本の和の色を巡る旅~自然の命をいただく色の世界―1. ことほぎ」を読んで



著者の方にこの記事を教えていただき、拝読した。
数々の共通のタームで、話しだした途端、おしゃべりが止まらなくなった不思議なご縁を味方に、感想を記してみようと思う。

【色について】
志村ふくみさんは、私にとって、女性の師である、と言っていいかもしれない。昔かじったシュタイナーの魂論やゲーテの色彩論と、再び結びつけてくれたのも志村さんだった。
植物から色をもらうこと。その受容性は、女性性の極みと言ってもいい行為だと私は思う。
志村さんのお孫さんが経営されているアトリエ・シムラの勉強会に出席したとき、ゲーテの色彩論による色環の説明があったのだが、緑に対置されている真紅(プアプア)は、人間の血液の色だと、私は直観した。
緑はいわゆる植物の色であるが、物質界を示しており、対置される真紅は、色が昇華された際に出現する、精神性の極みとしての色である。
色環において対置される色は呼び合っているとされ、この緑と真紅の2つも呼び起こしあっていると考えると、植物が人間の精神性を呼び起こした、つまり植物に望まれて、赤い血による精神性を身体の内に持ついきものが誕生した、という直観を持った。
私たち人間を、地球にとっていらないものと、自責の念を抱える人は多いが、これは精神がたどる時代的な移行期間による成長段階の一つの傾向であり、これからはそれが肯定的に開かれていく。
人間は、植物に呼応せよ。
それがこの色環から受け取った直観である。
文中で「色のむこう」と著者は言及しているが、色の向こう、つまり物理性を超えた向こうを見る霊性・精神性こそが、人間に求められている能力かもしれない。
私は、人というのは、他の動物よりも遥かに植物に似ていると感じている。直立歩行を始めた時点で、胴体は幹となり、真下に生える足からは、地に向かって見えない根が張られ、植物と同様、土地をマッサージしていく。そのエネルギーは、移動する、つまり歩くという行為により、よりいっそう顕著な効果を生んでいる。頭頂である脳内には、頭蓋骨に押し込める形ではあるが、ネットワーク化された枝葉を抱いている。
奇しくも、これを書いている日は、木星と海王星が魚座で合という166年ぶりの天体配置となっているが、木星と海王星が両方とも魚座の主星であることからも、強い配置となっている。合となる魚座24度のサビアンシンボルは「人の住んでいる島」。人間が自然の一部であることを自覚し、自然との共生・調和を促すシンボルである。

【名づけについて】
人はなぜ、ことばを持ったか。つまり、名づけを発生させたかについては、時代によって受け止め方が様々だが、「分かる」「分ける」さらに「同じ音において共鳴する」という意識が生み出したものであることは間違いないだろう。
そしておそらくその名づけのすべては、契約ではなく、対象を大切にするという愛によって行なわれていたはずである。枝葉末節での辻褄合わせが必要で、語呂合わせ的に契約が発生したとしても、音節によって分かれたあとの「こと」を「祝ぐ」という側面は、ことばが発生してから長いこと保たれていたのではないかと思う。その時代には、「ことだま」が機能していた。
いつからか、ことばは自身で増殖しだし(まるで一種のがん細胞のようだ)、物質化を目指し、本来の意味の対象であった「こと」から離れてしまった。その過程自体は、精神性の発達による、おそらく必須段階で、そこから情報遺伝子(ミーム)のような存在が誕生していることからも(文中にある、六波羅蜜寺の空也上人立像の口からほとばしるものは、まさにこの情報遺伝子の顕在化ではないだろうか)、責められるべきものではなく、むしろ身体性とは別の遺伝方法を生み出したという点で尊いが、それによって人間が地球から迷子になりかけたのは確かだろう。
本来、ことばとは、「こと」と自分との関係性を示すものだった。人間という単語が「人の間」と書くように、私たちは常に物質・いきもの・概念問わず、対象との関係性の総合値によって、自分というものの位置情報を割り出す。
ことばとは、本来、真理を表現するための道具ではなく、自分の位置情報を割り出すための道具なのである。つまり、言語内に真実を求める方法は、どこまでいっても完了を見ることはない。同様に、見える(理解できる)ものすべては、五感の総合による自分の位置確認のための情報であり、内部に真実がある類のものではない。ことばに頼りすぎた結果、陥ったこの倒錯には、対置される「見えないもの」「分けられないもの」を浮き上がらせるための意味はあるのだが、そろそろことば及び思考依存を手放す時期ではあるのだろう。これはもちろん、思考という行為自体を否定するものではない。関係性自体を理解するのにも、思考は必要だからだ。
コロナにより、三密を避ける、つまり「間」が強烈に意識される事態となった今、適切な「間」について、思いを巡らせる必要があるのではないか。
そもそも、人間が直立歩行するようになったのも、天と地をつなぐ「間」としての役割が背負う意味があったと思われる。
思考は「天」の領域、身体は「地」の領域、そして間をつなぐのが「人」「人間」である。思考優位の陽の時代、男性性、西洋色の強い時代が続いたが、今後は、身体性をもって陰を時代に対して適切に働かせるために、女性性及び東洋色を回復させていく必要がある。これは東洋優位の時代に持っていくというより、世界におけるバランスのために、である。
縄文やレムリアの意識を復活させ、平和をbeとするニュートラルな感覚へのシフトチェンジが行なわれていく。
「分かる」ことがすべて良しとされた時代から、「分からない」「分けられない」ことに抱かれている意味と大切さを感じとる時代になっていくだろう。

【何が現実化されるのか】
ことだまや意図、自分への呪文(アファメーション)を使うことによって、現実をコントロールできるといういわゆる「引き寄せの法則」と呼ばれているものがあるが、だいぶ誤解されて使われているように感じる。
アファメーションが効果があるのは、自分の意識が変化することで物事を受け止める意識が変わり、目の前に引き起こされる現象が言祝がれることで自分の歩くルートが変質する、ということなのであって、現象化自体をコントロールしているわけではないのではないだろうか。
道を開くのは、あくまでも「今ここ」の私であって、魂のナビによって設定された行く先はあっても、そこに向かうルートは、必ずしも想定通りに肯定感の高い道を行くとは限らない。
かのアインシュタインも、「いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできない」と言っているが、これは望みに対しても同じことが言えて、望みを叶えるレイヤーは、望みを作り出した意識と同じレイヤーには存在しない。

【天からの力、地からの力、人からの力】
私たちは、植物と呼応し、地球でより心地の良いいきものとして存在するために、これまでの人からの力だけでなく、天からの力(天体から受けるエネルギー)、地からの力(土地に流れているエネルギー)について、もっと思い及ぶ必要があるだろう。
それら天地のエネルギー把握は、現在では占星術やスピリチュアルであったり、霊力とも呼ばれたりするが、誰しもに潜在的に備わっている力であることに、これからはどんどん気づかされるだろう。
各分野において、専門的に領域が近い現場で働く方々は、すでに(直観のレベルであったとしても)知己があると思うが、役割分担が激しくなりすぎて、それらが知恵としてうまく共有されていないのが現状である。
一人ひとりに眠る神(内在神)を起こし、一人ひとりが天地人をつなぐ役割を、個々に請け負う時代となる。そこに優劣はなく、外部の存在への反射は、どのようなものも必然として起こり、また必然として人全体(集合的無意識も含む)に受け取られていく。
植物のように適切な間をあけて林立し、個性が発揮されていく。
ワンネスからの分離、魂を各々の身体に入れていく分離は、ときに人を孤独に突き落とすが、誰もが同等の孤独であることを信頼し、主張でなく応答を試みることで、自分にとって真に適切な反射が受け取れるだろう。相手を認めるとは、相手を自分に内包することでもなければ、上下関係を作って崇めもしくは蔑むことでもなく、植物同士が離れていても同種では会話ができるように、お互いの存在と個性、そして関係を信頼する、ということに尽きる。



素晴らしい出会いに感謝。
てか、びっくりしたよね。
こんなに興味関心が北斗七星みたいに適合する人。

いろいろありますよね。ほんとに。いろいろあります。





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