ま ば ら な
【dear innerchild】


2021.9.12




昨日から、東京では金木犀が選挙活動に入っている=一斉に香っている。



一晩の間に、壮絶な妄想に襲われた。
妄想の怖いところは、それを観ている間は、決して妄想とは分からず、現実における認識・区別がつかないことにある。
本来、夢機能で処理されるところを、妄想では昼夜問わない白昼夢として現れてくる。

妄想の直後、私は絶望的な苦しみのなかで、また、「世界に自分しか存在しない位相」に入り込んだ。



1998年(発病より2年前)に、私は初めて本格的にこの問題に突っ込んだ(紙版からのウェブ化は発症後)。
当時に書いたものをリンク先にアップしてみるので、よければご参照いただきたい。

何が真の意味で深刻かは、リンク先を見ていただくとして、ここで問題になっているのは、1人称及び個的感覚、さらに最近ここに加わった内在神がとる、相互の位置関係であり、さらにここで予感されている外部としての2人称と、それとの隔絶の原因、アクセス方法である。

この約20年の間に、私は、自分のなかで大きな沈没を繰り返すたびに、この問題に陥ってきた。
最近は、スピリチュアル界隈でも、この世界はすべて仮想現実で、実際に存在しているのは自分だけ、という設定は珍しくなくなった。
それでも、実際にそこに陥ると、やはり腑に落ちない部分は多い。対人部分や社会性が、すっぽり抜け落ちてしまうからだ。

今日も、インナーチャイルドが「お散歩!」と言うので、散歩をしてみたけれども、全く解決の目処が立たない状態だった。



散歩のお供に、本を持っていた。
最近、読んだ記事で勧められていた『自分をいかして生きる』(西村佳哲/ちくま文庫/2011)。
家で冒頭を読みはじめたら、面白かったのだ。
川沿いの遊歩道の中にあるベンチで続きを読み、文章量としてはそれほど多くなかったので、明るいうちに読み終えることができた。

そしてなんと、その本の中に、私が陥っている問題への見事なアシストと思える図が、描かれてあった。

著者によると、「私」「自分」というのは、自分の中にある「自分自身」と、「他者」もしくは「社会」との間を取り持つ存在だ、という設定だった。
なるほど。
とてもいい。
私はこの本に助けられて、他者の存在する位相へと戻ってこられた。
ともかくも、社会性が復帰して、ほっとした。
仮想現実を、表皮的にうまくやることは私にもある程度はできるが、やはり内部とのギャップはとてもきつい。
この「自分自身」と「他者」を調停する「私」という図式は、沈没した私が、社会に戻ってくるときのマイルストーンには、これからもずっと、なってくれるだろうなと思った。



この著者の思考法は、私がなぜ、今回のような図式に陥るかの答えにはなっていない。
この問題設定を、単なる社会機能不全だと片付けることももちろんできるのだが、それでは答え切れない要素が、そこにあると私は思っている。
それが、病的なものであれ、何某かの解決法が必要だとも、思っている。



地獄にようにつらい体験から、すくい上げてくれた、この本を勧めてくれていた記事に、もう一度、感謝。